引っ越しの話の続きです。
今日も、頭に浮かんだ作り話につきあっていただけたら、さいわいです。
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登場人物紹介
講師
一文字浩介
地方の準難関大学卒であるが、なぜか帝国大学の講師をしている
心理学者の若手
興味は豊富で、多彩な知識を持つが、まだ何も大成していない
学術とは変わった認識を持つ
言葉使いは、ていねいだが、少し変わり者
生徒1
橘涼香
元、理系女子
宇宙など、壮大なものにあこがれる
宇宙物理学科を目指し、大学受験では合格できるレベルにあったものの、研究に残ることができる者は、ごく一部の天才だけと知り、人文科学を専攻する
気丈な性格といえる
生徒2
円山由貴子
文系女子
ふくよかで、穏やかな才女
彼女の優秀さは、時にかいまみられる
感性豊かな性格
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一文字:実のところ、学生時代にも、引っ越し問題が出てきたことが、私にもあるのです。
大学時代1年生の時、6畳の下宿に住んでいました。
そうしたら、隣の部屋の学生に多くの友人が訪れて、騒がしい会話、ロック音楽、麻雀の音が深夜続くために眠れなくなりました。
橘:先生って、意外に繊細なのですね。
一文字:放っといてください!
円山:それはさておいて、実際、どのようにしてすごしたのですか?
一文字:まずは、大家さんの勧め通り、家主の自宅に下宿先を移しました。
橘:なるほど。それで、うまくいったのですか?
一文字:いえ。とても気を遣い、トイレに行く度に忍び足を使いました。
すごく窮屈でした。
電話を受ける際にも気を遣いました。携帯電話が普及していない時代でしたから。
そのため、まったく別の下宿先を見つけることにしたのです。
橘:なるほど。それで、今度は、うまくいったのですか?
一文字:古い二階建ての家屋ですが、独立した一軒家で、しかも、下の1階部分は倉庫なので、気兼ねなくすごすことができました。
円山:それは、よかったですね。
でも、家賃が高かったのではないですか?
一文字:それが、ですね…
橘:何ですか?
一文字:同じ敷地内に事務所があったので、2DKにしては、望外に安かったのです。
円山:事務所ですか?どのような事務所ですか?
一文字:特別な事務所です。
橘:それって、危ない事務所のことですね。
一文字:ご明察!
事務所の窓ガラスはクモの巣状にひび割れていました。
時々、パンパンという、銃声かと思われる音が響き渡りました。
円山:反社会的勢力の事務所ですね。よくそんなところに住みましたね。
一文字:同じ大学の先輩が数人住んでいて、危険な目に遭っていないという情報を得ていたからです。
円山:そうでしたか。実害はありませんでしたか?
一文字:それが、意外にないのです。
事務所員も近隣とトラブルになって、警察を呼ばれるのを嫌いますから。
円山:調和を保つために、そのようにする必要があったのですね。
一文字:ただ、1,2回ほど、気持ち悪い出来事がありました。
橘:それは、どんなことですか?
一文字:機動隊がガサ入れで入っていた時です。
監視カメラを据えてある事務所のドアが開いていて、白服に身をまとい、盾を装備している警備隊がドアの両側に立っていたました。
事務所員は、やりどころなく、出たり入ったりして、ウロウロしていました。
組織でやってくる警察には、脅しもきかないし、手も出せない。
円山:これは、力関係ですね。
全国に組織されて配置されている警察にはかなわない。
それに銃器を持ち出すと、自衛隊までやってくる。
軍事力の差は歴然としています。
一文字:やられたら、やり返すことになるので、手が出せないのです。
ぼくは、そうした非日常の方が怖かったですね。
円山:ところで、振り返って質問します。そのアパートの家賃はどのくらいでしたか?
一文字:地方の中核都市で、街中にあるにもかかわらず、バブルの頃でも3万円少々でした。
今は、年月が経つと家賃は安くなっていく方が普通ですが、あの当時は、家は古くなっても賃料は上がっていたのです。
円山:隔世の感がありますね。
一文字:そうです。バブルの時代ですから。不動産は、常に上がっていました。永遠に上がるという幻想を大多数の人が持っていました。
これは、過去の事象に囚われて、現実の認識力を持っていない状態です。
バブルの中にいる中で、それがバブルだと気づいている人はごく少数派なのです。
円山:それで、下宿先の居心地はどうでしたか?
一文字:ぼくにしては、そこそこ、よいものでした。
橘:その理由は何ですか?
一文字:自分が出す音の迷惑を気にしなくていいことでした。
これまで、忍び足で歩いていましたが、その必要がなくなりました。
橘:一方、何らかの不利益はありましたか?
一文字:接している国道が騒がしかったことです。
交通量が多く、騒音が耐えませんでした。
大型トラックが通ると、家が揺れて、軽い地震が起こりました。
初めて訪れた友人は、異変があったのかと驚いていました。
円山:では、いくらかの騒音はありましたが、よいことの方が多かったですね。
一文字:そうなのです。
その代わり、毎日、うるさいバイクが集団でやってきました。
年に1回くらい、死人が出るような交通事故が起こりました。
夜間、ものすごい衝突音が聞こえたと思ったら、翌日にお花が供えられていました。
円山:何かと治安が悪いところだったのですね。
一文字:物事には、合理的な相場があります。
家賃の安さ = 治安の悪さ
だったのでしょう。
アパートの前、あるいは後ろの路を自転車で2〜3分走ると、別の組事務所がありました。
ある日、偶然、朝5時頃、通っていると、若い衆が集まって、号令していました。
円山:隣のみならず、他の近隣にも事務所があったわけですね。
一文字:そういうことになります。
橘:それで、先生は、安さに惹かれてそのアパートに住んでいたのですか?
一文字:もちろん、家賃も大切です。
それとともに、自分が自由に暮らすことができる環境であることが望ましい。
橘:その当時の先生の「自由」とは、具体的には、どのようなことを指していましたか?
「自由に生きるのに必要なだけ」では、分かりかねます。
一文字:その通りです。
まず、自分の生活音が他人に迷惑をかけていないこと!
とても重要なことです。
それによって、自分の行動の制限が大幅に削減されます。
橘:その他には?
一文字:とても助かることがありました。
自分の趣味が、人に邪魔されないこと!
橘:先生は、人に迷惑をかける趣味を行っていたのですか?
一文字:うーん。そう言われると困りますが、人を困らせる場合もあります。
円山:一体、何をやっていたのですか?
一文字:音の環境に配慮しなくてよくなったため、オーディオセットを買い、自由に音楽を聴いていました。自分の好きな時間に自分の好きな曲、そして、自分が好む音量で聴いていました。
橘:時間と曲は理解できるのですが、音量の制限はなかったのですか?
一文字:それを確かめたところ、音量を上げていっても影響ないことが分かりました。
橘:ヤの組の人が乗り込んできて、「うるさい、ぶっこ○すぞ!」と言われたことはなかったのですか?
一文字:ありません。
ぼくのアパートは独立していて、組事務所から離れていました。
少し空間を隔てた隣の住居は、たまたま大学の先輩が住んでいましたが、音は気にならないと言われていました。
橘:すごいラッキーじゃん!
好きな曲を好きなボリュームで聴くことができましたね。
以前、和歌の話で、マイケル・ジャクソンをフルボリュームで聴いていたというのも、その時代のことですか?
一文字::その通りです。
金のない学生時代の無理をして、高性能CDプレーヤー、発熱量の多いA級アンプ、片側で35kgある、モニタースピーカーをそろえていました。
響きがよくなるため、スピーカーの下には、土台となる50kgもある大理石を据え付けて、大理石とスピーカーの間には、高純度の銅を4つかませていました。
このシステムで、ビリージーンを聴くと、ベースの音が床を伝い、体ごと振動しました。
橘:そんな大音量の中、古今和歌集を読んでいたのですね。
一文字:そうです。
橘:やはり、先生は、変人です。
円山:涼香ちゃん、それは御法度よ。
でも、それで先生は、刺激的な学生ライフを送ることができたのでしょう?
一文字:そうなのです。
自分のたてる音に文句を言われず、好きにできる自由は代えがたいものがありました。
スリラーの冒頭で響く靴音は、右から左にきれいに偏移して聞こえます。
音が繰り為す「快感」です!
円山:精神的満足の極みですね。
一文字:五感の中で、聴覚のしあわせです。
橘:しかし、そんな大音量の中に長時間いたら。耳は悪くなるのではないですか?
一文字:鋭い指摘をしますね!
私は、少し高い波長の音が聞き取りにくいC5ディップという、軽い騒音性難聴になってしまったのです。
橘:「ああ、なんらの悪因ぞ(森鴎外:舞姫より)」というところですね。
一文字:いやー、反論のしようもありません。
ただ、私は、マイケル・ジャクソンなど、音量の大きな曲ばかりを聴いていたわけではないのです。
交通量の多い国道でも夜中の3〜4時は、静まりかえり、微細な音を聞き取ることができました。
静謐(せいひつ)な空間で、至上の音楽をたしなむことは、無上のしあわせでした。
当時のぼくは、モーツァルトの曲を一番好んで聴いていました。
ピアノ協奏曲23番は、いくど聴いたか分かりません。
同じ曲で異なる演奏家のCDを複数持っていました。
グルダの演奏を一番よく聴きました。
時代が変わって、最近は、カール・ベーム指揮、ポリーニ演奏のロスレス録音がお気に入りです。
ポリーニが超絶技巧を抑えて、日なたぼっこの中で、そよ風を感じているような感覚です。
橘:先生って、ひどく庶民的というか、子供じみたことが好きな上に、知識人のみが知っているようなことも好まれていますね。
このギャップが私には理解できません。
一文字:橘君は、いわゆるバランスのとれた正常人だからでしょう。
ぼくのような変人と比較しても仕方がありません。
世の中には、何が正解なのか、理解できないことが多すぎます。
この2回は、引っ越しを通じて、世間の考え方と個人の価値感の違いについて考察しました。
次回は、より切り込んだ議論に入っていきます。
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お金と自由は比例する。そして、自由を獲得するためには、工夫がいる
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