みなさま、新しい年を迎えることとなりました。
遅ればせながら、明けましておめでとうございます。
今年こそはよい年をと願うことは人の自然なこころの動きであり、
そのための端緒として、初詣にお参りにいかれた方も多いのではないでしょうか。
正直な所を申し上げますと、私自身は初詣がひどく苦手で、
成人してからは、あまり参列した記憶がありません。
かくいう私も親と同居しているときには誘われて近くの神社にお参りに行ったものでした。
「始終ご縁がありますようにと、45円を賽銭箱に投げ入れる」ように教わったのは小学生の時だったと記憶しています。
それが、高校生になった頃から、どうも初詣は好きになれないと自覚しました。
人間性に悩む思春期特有の疑念も生じたのでしょうか。
私は、大人達の行うその行為に醜いものを感じ取ってしまったのです。
自分の欲望を一方的に神様に押しつけるエゴ、そしてその見返りにさしだすのはたったの45円。
これではあまりに不釣り合いというものです。
かといって、喜捨する金額を増やしてもそれは神様に届けられるわけではないことに不条理を感じたのです。
こうした観念も持ってから、私は賽銭箱にお金を入れ、鈴を鳴らして手を合わせた後、祈る言葉に窮してしまう結果となってしまいました。
ある年は、願い事をしないまま祭壇を降りたり、別の年には、受験で差し迫っているにもかかわらず、「世界が平和でありますように」などととってつけたようなお願いをしたこともありました。
こうした、「祈る」ということに軽い葛藤があってから、親元を離れた私は初詣をする習慣を失ったのでした。
ーーーーーーー(年月の流れ)ーーーーーー
私が新しい考え方を手に入れることができたのは、
あれから随分の時間を費やしてからでした。
すでに実行されている方には、なんだそんなことと感じられるかもしれません。
でも、ものすごく大切な考え方と習慣が含まれてるのです。
私が気づいたのは、祈願の始めに、たった一言、
「ありがとうございます」とお礼を述べることなのです。
それだけ伝えれば、すぐにその場を去ってもよし、具体的なお願いをしてもよしと各人各様の行動をとればよいのです。
だって、すでに私たちは数々の恵みを限りなくもらっています。
それを当たり前のように感じて、次のものを求めるのは、子どもがだだをこねて、親に次々とおかしやおもちゃを要求するようなものです。
私は、そのような子どもであると自覚し、はっとしました。
人に何かをしてもらったとき、「ありがとう」という人と「もっとして」という人がいた場合、次回、どちらの人により手助けしてあげたいと思うでしょうか?
答は知っていますよね。
もらった運を使い尽くさないでとっておくことを、
幸田露伴は、「幸福論」の中で述べています。
「惜福」と呼び、3つの福のうちのひとつとしています。
初詣で願うことは一向に構わないと思うのですが、願いが祈りに昇華した場合、
自分にとっても人にとってもよりよい方向に向かうのではないかと考えるのです。