2015年8月2日
「待った」をする人は、成功できない

・囲碁という、奥深いが普及されていないゲーム

ぼくは、大学生時代に囲碁を覚えました。
しかし、少し強くなったかと思うと、その度に上達を妨げるような傷害が起こることが不思議です。
まるで、ぼくが囲碁の世界にどっぷりとはまるのをさえぎるようにです。

大学生時代は、試験勉強のために中断しました。
社会人になってからは、なぜか嫁に反対されました。
子どもが小学生になると、その教育のために断念しました。
最近、また始めましたが、ある事情により、打ち込めなくなりました。

このように、邪魔ばかりのようですが、才能のない自分にみを何者かが守ってくれているのかもしれません。

・強い人は、形が違う

そんな感じで、結局のところ、強くなれていないぼくですが、弱いなりに分かることがあります。

相当強い人は、石の形がきれい。
そして、ハメ手を打たない。

中途半端に強い人は、我流で、無理矢理やりこめますが、本物にはやられます。
そして、ぼくみたいな者がみても形が崩れていることに気づかされます。

その上、相当に強い人は、礼儀正しい人が多いというのは、明記しておいた方がいいでしょう。

・ルールを破る人がいる

囲碁でも将棋でも当たり前のことですが、本当の勝負で、「待った」はありません。
「待った」とは、打った手を打ち直すことを言います。

公式ルールでは、これは、反則となり、即負けが確定します。
プロでは、当たり前のこと、そのプロになる院生でも当然のことです。
というより、公式戦で、「待った」を認めると、そもそも試合にならないのです。

これは、囲碁や将棋に特有の現象かもしれません。

考えてみて下さい。
サッカーのPK戦で、ゴールキックが入らなかったから、「待った、今のは単純なミスだから、もう一度やらせてくれ」
野球で、ホームランを打たれた後に「待った、今のは手元が狂っただけだから、なしにして、もう1球前からやらせてくれ」
そういう主張が通るはずはありません。

ところが、囲碁や将棋では、それをやる人がいます。

碁会所を経営している席主が、一局(1試合)の間にいくども「待った」をするのを見て閉口した記憶があります。

・「待った」をすると、自分の人生に責任をとらなくなる

先日、結構、強い人で、「待った」をする人がいました。
対局がネット碁なので、そういう機能があることさえ知りませんでした。
その方の写真は、人をおちょくっているような雰囲気をかもしだしています。

ともかく、ぼくは、その人の「待った」を認めませんでした。
実は、その同じ対局で、ぼくも手先の狂いから、1つ違いの場所に石を置いて、不利な立場になった場面があったのです。
それでも、ぼくは、「待った」はしませんでした。
いや、実は、単純にやり方が分からなかったと言われればそうですが、それ以前に、そういう発想そのものがなかったからです。

これは、囲碁や将棋に限りませんが、「待った」をする人は、甘えた人が多く、また金銭的にも、責任感がない可能性が高いと考えています。

・自分で印鑑を押すこと

ぼくは、重要な書類に契約をする時、書類に細部まで読ませていただいてから印鑑を押しています。

そして、印鑑を押すのが下手で遅いぼくを見かねて、一定の業者は、「代わりに押印しましょうか?」と提言しますが、ぼくは受け入れません。
印鑑、特に実印を押すような契約はと重要書類でありますから、自分の手で行うことを旨にしています。

これは、その契約で失敗しても騙されたとしても、基本的には、「自分の責任」だと考えるようにしていることに起因します。

あまりにもひどいとか、法令違反の場合は、契約解除を求めることもあるでしょうが、そうでなければ、自己責任としています。

たかが判子と思わないでください。
そこに、あなたの意志が刻まれるのです。