読み手の解釈が、書き手の意図と異なることは、けっこうあります。
特に難解なものや抽象的なもので起こりやすいようです。
宮崎アニメでは、すでに作者の手を離れて、いくつもの解釈が存在しています。
会話でも、文章でも誤解というものは、常に生じます。
ぼくは、つい先日もこれを体験しました。
それは、
・書き手の表現が不十分である
・書き手と読み手の意図が異なる
・説明していない口頭での内容がたくさんある
・説明していない、プロフィールがある
・説明していない、文書の主旨がある
というようなことで、何か、もらった意見に対して、ちぐはぐな印象を持ってしまったのです。
その中に、考えてくれているな、と思う部分も確かにありました。
しかし、結論は、「~ということでしょうか。~に甘んぜよ、ということでしょうか。」とぼくの意図とは、地球の反対側くらい離れた意見がやってきたのでした。
そして、最後に、「あなたにこれを語る資格があるのか疑問符がつきます。つきましては、語る資格のあるプロフィールを示していただけませんか」
ここまで読んで不快に思って考えるのをやめました。
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「資格」というきつい言葉は、何なのだろうかとやはり疑問。
何かの行為、例えば、診療行為を行うのに資格は必要です。
不動産の仲介をして、報酬を受け取るのにも資格が必要です。
でも、「資格」に抵触しない文章に、「語る資格」が必要かどうか、そのことに逆に疑問符を持ったのです。
文章で語る場合に必要なのは、語れるだけの背景を持っているか、経験を持っているか、説得力を持っているかです。
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ぼくは、ナーバスな人間です。
ですから、黙しながらも考えてしまいました。
しかし、それでは埒があかないから、相手の言葉の意図は、何だろう?と再考してみました。
それから、考えた一つの推論は、この方は、私が示した条件か、あるいは文章の内容に腹立ちかいらだちを感じているのではないのか、ということでした。
そのままの気持ちを引きずっても仕方がないので、実際に、腹立ちやいらだちがないでしょうかと訊ねました。
そうしたら、そういう誤解を与えてしまったことをお詫びしますという丁寧な返信が返ってきました。
翌日、お話したところ、その業界では、「語る資格がある、ない」という言葉を常日頃から使っているとのことでした。
資格という言葉に深い意味はなく、そのような、「語ることのできる背景」の意味合いだと言われていました。
一つの言葉ですが、使う場面に差があるのですね。
しかし、現実には、前の文章に覚えた違和感がさらに増強される結果になってしまいました。
誤解がさらなる誤解をうむ。
言語による誤解は常にやってきます。
そして、誤解は、関係性の瓦解につながります。
「コミュニケーションは、受け取る方よりも発する方の責任だと考えた方がよい」という言葉を何かの本で読んだことがあります。
ぼくは、この言葉が意図するところは、コミュニケーションでの誤解は、自分自身の取り方に責任を持ちなさいという意味だと解釈しています。
ただ、現実には、語り手と受け取り手の双方に何らかの齟齬があることが一般的だと考えています。
そして、自分の表現は、より慎重にしなければならないと感じました。
言葉という水のような流れの中で、流れている川が異なっている例なのだと感じました。