今回も時事問題に関する記事です。
ノーベル賞の発表がありましたね。
iPS細胞を開発した山中伸弥教授が若くして、
ノーベル生理学・医学賞を受賞されました。
iPS細胞については、開発当初から話題にのぼっていました。
しかし、わずか数年でノーベル賞受賞に至ることは稀です。
私は、山中教授は、常人とは違う雲の人だと思っていました。
しかし、実際には違った像があったのですね。
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■ 天才とは
自分とは異なる卓越した能力を有し、
それを行使して、偉大なる実績を上げる人だと
考えていました。
今回、ノーベル賞を受賞された山中教授は、
京都大学の所属で、しかも異例のスピード受賞。
私らとは桁が違う才能の持ち主だと思っていました。
いや、実際に才能はあるのだけれど、決して
すべてにおいて優秀であったというわけではなさそうなのです。
■大学は、
生え抜きの京都大学だと思っていたのですが、
神戸大学の出身であったそうです。
神戸大学の方ももちろん優秀ですよ。
その話ではなく、
神戸大学を卒業後、国立大阪病院で
整形外科医として勤務されていました。
志望動機は、学生時代に柔道やラクビーをやっていて、
10回以上骨折するなどのケガが日常茶飯事だったからのようです。
■ さて、
臨床医としての山中先生はどういう状況であったか。
他の医者が20分で終わる手術に2時間ほどの時間がかかったり、
点滴に失敗するなどして、指導医から、
お前は「やまなか」ではなく、
「じゃまなか」や
と怒鳴られ、邪魔者扱いされたそうです。
それで、自分は臨床医に向いてないと感じました。
また、リウマチの重傷患者を担当して、変形した関節にショックを受け、
患者を救う手助けを研究するために研究者を志すようになったそうです。
■ その後、
大阪市立大学の大学院に入学します。
そこの薬理学教室で学位を取得します。
学位取得後は、どうやったら、
人の3倍研究ができるかを考えます。
ほとんど寝ないで研究を行うことも多く、
ハードワークでは誰にも負けない自信があったそうです。
それから、グラッドストーン研究所に博士研究員として留学。
トーマス・イネラリティ教授の指導の下、iPS細胞の研究を始めます。
帰国してからは、大阪市立大学薬理学教室の助手に就任。
しかし、米国との研究環境との落差に苦しみます。
また、研究の使うネズミの管理担当が不在のため、
ネズミの管理に忙殺された上、すぐに役立つ研究をしなかったということで、
「やまちゅう」
と呼ばれ、半分うつ状態になりました。
■ 基礎研究をあきらめ、
研究医よりは給料のよい整形外科医に戻ろうと考えました。
そして、
「どうせだめだろうから、研究職を辞めるきっかけのために」
とふんぎりをつけるため、奈良先端科学技術大学院大学に応募しました。
そうしたところ、採用となり、アメリカ時代と似た研究環境の中で
再び基礎研究を再開しました。
2003年に熱意で研究開発費を得て、
奈良先端科学技術大学院大学でiPS細胞の開発に成功しました。
そして、翌年の2004年に京都大学に移ります。
2006年に有名な科学雑誌Cellに論文を発表。
翌年には技術を発表し、世界的な注目を浴びることになりました。
2008年にはTIME誌で、世界で最も影響力のある100人に選ばれました。
そうして、様々な賞をとりつつ、今回のノーベル賞受賞となったわけです。
■さて、
この短い研究人生エピソードを読んで、
何かを感じられたでしょうか?
▼すべてに秀でた人はいない。
▼人の3倍やれば、何かを成し遂げることができるかもしれない。
▼何事にも、順風満帆な時期とうまくいかない踊り場の時がある。
自分なりの感想を持たれたらうれしい所存です。