冬のさなか、ミーちゃんが、窓の隙間からとびだしていきました。
うちには、数匹の動物が中にいるため、冷暖房を常時稼働しています。
通常は、春と秋に多い猫の繁殖期が、この極寒の時期にやってきました。
普段は出さない声を発し、お尻を上げてつらそうにしていました。
そして、10cmくらい空いていた窓から家を抜け出てしまったようなのです。
風呂場、下駄箱、収納棚…考え得る場所を探しましたが、ミーちゃんはいませんでした。
また、鳴き声や音など動物が隠れている気配もなく、
「ミーちゃんは、いなくなったのだ」
……と認めざるを得ませんでした。
これまで、家猫でずっと暮らしていたミーちゃん。
なにも寒空の下に身を預けなくてもよいものを……。
探していると、夜、ミーちゃんに似た黒色の猫が境界壁の上に佇んでいる姿を発見しました。
「ミーちゃん?」と呼びかけたけれど、そのネコは、一瞬、振り向いたように見えたけれど、壁を降りて、他の家の敷地にある隘路(あいろ)に走り去っていきました。
「もしかしたら、ミーちゃんかもしれない。鳴き声がそう思えた。でも、ミーちゃんが流し台の中に閉じ込められていた間、エサを貪り食ったドラネコかもしれない」
期待と不安の入り交じった中、
「ミーちゃんの可能性もあるのだから、とりあえず、家の庭にエサ箱をおいて、糊口を凌ぐ(ここうをしのぐ)手助けにしよう。その上で、捕まえることのできるチャンスをつくろう」
と決めました。
翌日、用意していたエサ箱の中身が空になっていました。
ミーちゃんか、ドラネコかは判別できないけれど、ミーちゃんは、家の近くにいるかもしれない。
そうして、エサを置きながらも日が経つにつれ、手にとることのできないミーちゃんへの期待が薄らいでいきつつある日、ネコの生体に詳しいカウンセリングの先生から、助言をもらいました。
「ネコ探しのポスターを貼ってみたら、どうですか?」
張り紙のことは前から考えていたのだけれど、実行していませんでした。
さっそくポートレイトの画像を入れた一枚の書類を作成して、ペットショップに勤めていたこともあるスタッフに意見を聞いてみました。
それで書類を修正し、大きさもA4からA3に拡大し、雨に濡れても色ムラができないよう、ラミネート加工を施したポスターを作りました。
それを家の前の電信柱に貼ることにしました。
貼る際、丸い電柱にガムテープで貼る作業が予想以上に難航していた時、たまたま通りがかった若いステキな女性が、ポスターを押さえる作業を手伝ってくれて、無事に作業が完了しました。
(嫁は、なぜ、手伝ってくれない?!)
その作業が終わってから3時間も経たない内に家に知らせがありました。
向いの奥さんが、
「写真に似ている尻尾の長い黒いネコをみましたよ」
と報告してくれました。
まだ、判然としないけれど、一縷(いちる)の望みがふくらみました。
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翌日の夕方、さらなる出来事がありました。
私は、インナーイヤホンで音楽を聴いていたのですが、楽曲にしてはおかしな音が入るため、イヤホンを外して確認すると、嫁の携帯が鳴り響いていました。
着信をとると、興奮した男性の声がありました。
「写真に似ている猫が、うちの店の内に入りこんできました。子どもたちが捕まえようとしたけど、逃げようとして、頭をドアに4回も激突させたので大丈夫か心配です。すぐに来てください!」
指定のお店に出向くと、そこに猫の姿はありませんでした。
しかし、ドアを閉めたままの状態なので、外には出ていないはずです。
お店の奥にCDを両脇に陳列している狭い通路がありました。
そこの奥の行き止まりには、破損した木造の壁があり、ネコが逃げ込むには格好の狭い隙間がありました。
腕を差し込んでみたけれど、壁の割れ目は手の届かぬ所まで続いていて、到底、捕獲できる状態にはありませんでした。
頭をひねりましたが、このままネコが出るまで居座るわけにもいかず、さりとて追い出して捕まえる手段を持ち合わせていないため、1つの戦略を告げて、店を出ることにしました。
「明日、ネコの捕獲器が届く予定です。それが届いたら、設置させてください」
そう言い残して一度帰宅しました。
家に戻ってみると、ポストの中に郵便局からの配達状が入っていました。
そこに記載されていた番号にコンタクトすると、それはネコ捕獲器の配達状ではなく、嫁が注文した、得体の知れない品についてのことでした。
時間は午後6時13分でした。
通常であれば、翌日以降の再配置になります。
しかし、うちの家が郵便局から比較的近い場所にあることがさいわいして、その日の内に再配置してくれることになりました。
配達時間は夜8時過ぎでしたが、ありがたいことに、ネコ捕獲器も一緒に届きました。
配送場所はクリニックでしたが、同一人物からの依頼だからでした。
私と嫁は、捕獲器の箱を開け、組み立てることにしました。
同封されている2本の棒の使い方が分からない。
それでも、試みているうちに、1本は、固定するための棒、もう1つは、罠を仕掛けるための棒ということが判明しました。
よく考えられて作られています。
猫が少しだけ浮き上がった板を踏むと、入り口の扉が落ちて出口がなくなるという仕組みです。
少し遅い時間になりましたが、お店の人は、上で過ごしているということで、再訪して、捕獲器を設置させていただきました。
あれから音はしていない。
壁に穴が空いているようなので、そこから外に出ているかもしれない。
淡い期待と底の見えない不安がまた交錯しました。
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翌朝、お店の方から電話がありました。
エサは平らげられている。だから、まだ、店の中にはいるだろう。しかし、扉を閉じる仕掛け板が踏まれていないようなので、捕獲器には何も入っていない状態です。
エサの設置場所がうまくなかったのだろうと推論しました。今度は、足が板を踏むように、エサを板の前に起きました。
ネコは、昼間は身を隠している。夜を待ちましょう、ということに決まりました。
そして、翌日。
求めている子がどうかは分からないけれど、捕獲器にネコが入っていると連絡が入りました。
嫁が出向いて確認すると、それは、紛れもないミーちゃんの姿でした。
「水は飲んでいないようだから、脱水に気をつけて下さいね」
お手伝いしてくださったお店の方が、医療従事者のようなアドバイスをくれました。
お店の方にお礼をして、次いでご近所さんにもお菓子を配って、この1件は解決しました。
一度も自分の足で外に出たことのないミーちゃんは、野生のネコとなり、どのように身を潜め、夜露をしのぎ、食べ物の確保にどれほど奔走したことでしょう。
ミーちゃんは、前より頬が欠けていました。
ミーちゃんを正面に据えると、お互いまっすぐ見つめ合いました。
ミーちゃんの目は、こんな風だったかと思うくらい、まん丸になっていました。
ミーちゃんを抱きしめると、以前と同じ咽の鳴らし方をしました。
水とエサと大好きなおやつのチュールを用意すると、水をごくごく飲んでいました。
食べ物は数回食べて何とかなったけど、お店の人の言ったとおり、飲み水に困っていたのかもしれません。
少し足を伸ばせば、人が口にしても問題のない清流の湧き水があります。
ミーちゃんは、そこまで辿り着けなかったのでしょう。
帰宅した翌日、ミーちゃんは、イヌのアイちゃんのいない隙にベッドに潜り込んできました。
本当は、一緒にすごしたいミーちゃん。
でも、番犬のアイちゃんが、それを阻んで許してくれません。
めずらしい場所での刹那的なミーちゃんとの邂逅(かいこう)かと思いながらも心温まる気持ちですごしていると、ほどなく、キリッとしたアイちゃんが、戻ってきました。
ミーちゃんが逃げ出さないように私は首をつかんで身体を包み込みました。
アイちゃんが、近くに接近して、するどい眼光を放っています。
初めアイちゃんは、ワンワンと吠えましたが、私が叱りながら制した後、アイちゃんの首回りをやさしく撫でました。
アイちゃんは、パパとママをネコにとられないよう、常に監視しています。
甘えん坊のアイちゃんは、ネコに嫉妬するのです。
いつもなら、すぐに逃げ出すミーちゃんですが、この度は、私の元を離れず、アイちゃんに対抗しています。
その姿には似合わない、低くて不気味さを帯びた、「ウー」といううなり声で威嚇牽制しています。
私の右手の首にはミーちゃん、左手にはアイちゃんの首を持っているという態勢で、2匹は至近距離でしばらく対峙していました。
2匹とも身動きせず5分から10分の間、にらみ合いを続けていました。
先に動いたのはアイちゃんの方でした。
攻撃の動きも発声もなく、その場を立ち去って行きました。
ミーちゃんは、ゴロゴロと咽を鳴らし、少し滞在してから私の元から巣立っていきました。
1週間少々すごした外の過酷な世界がミーちゃんを強くしたのでしょう。
ミーちゃんは、今、普段は使わない私のセカンドベッドで眠りに就いています。