2019年12月17日
お金を支払わないと話もできない現代社会

いくつか悲しい気持ちになることがあります。

・自分の能力がないこと
・努力が足りないこと
・節制が足りないこと
・健康に不安があること
・朝、スッキリ起きることができないこと

などなどあります。

 

できないことを数えたら、限りがありません。
今の世の中では、できる専門職の方が少ないのです。

それでも、やはり悲しくなってしまうことがあります。

これは、社会的な構造とも関係しているかもしれません。
人間関係の希薄性とも関係しているかもしれません。

もちろん、個人のコミュニケーション能力とその維持努力にも関係します。

 

最近、思い当たったこと。

「お金を払わないと人と話をすることができない」

日常の人間関係で満足していればよいことです。
ただし、技能を教えてもらうことには、支払が必要です。

スキルをタダで教えてくれません。

 

こういう私も専門にしている医学的知識や専門知識については、診察という行為をはさんで、お金をいただいています。

絶対、無料でお話しないわけではありませんが、たかられると、自壊します。
生活も成り立ちません。
職員の給料を支払うこともできません。

それでも、HPのブログなどで、無料の情報発信をしています。
人は、自分にとって役に立つ情報を求めます。
検索して目についた情報を見つけてみます。

残念なことに、私がそれなりの労力を費やして書いた資料は、通院されておられる患者さんとともに、他の方にも役立ってほしいと願って作成しています。
しかし、実の所、通院されておられる方への提案として、あまり役に立っていないようです。

そのため、診察場面で、こういうやり方や考え方がありますよ、とHPを示して、説明してからプリントアウトしてお渡しすることがよくあります。

初めから、HPを読んでくれていたら、時間も手間も省略できますが、人は、それだけの関心と労力はなかなか持ちあわせません。

私もお金を出して買った本や英会話教材の封を開けず、そのままにしているものが多くあります。
材料はあっても、労をとることが苦痛なのです。

 

そのような中で、お金を支払ってでも、教えを請いたいという場合があります。
その時は、素直にお金を支払っています。

最近では、コーチングとカウンセリングです。

コーチングは開始してから1年以上経ったでしょうか。
この度、ひとまず、中止することにしました。
いろいろな考えがあってのことなので、理由は1つではありません。

その際、1つだけ悲しく感じることがありました。
コーチングを受講する生徒で、私は優良ではありません。
コーチをして手応えを感じる生徒でもありません。

それでも、マイナスオーラを発するわけでなく、コーチにとっても役に立つ(有用な)情報も関する話もしていたつもりでした。

しかし、その話は、私にとって、有為な話であって、コーチにとっては、どうでもいい話だったのかと思います。

人は、それぞれの立場と関心で、求めるものや課題が変わります。
私が、ただで提供しているつもりの「よい(と思っている)話」は、コーチには、あくびの出る話だったのでしょう。

コーチングの費用の支払いとコーチがなすべき義務が終わっても人間関係が続くことを願っていました。

しかし、私には、そのコーチに提供できるだけの

・よい情報
・有利な方法
・考え方

などを備えてなかったのでしょう。

それを思うと、悲しい気持ちになるのです。

 

とは言え、もっと極端で露骨な話があります。

飲み屋の女の子やホストは、金をおとさない客は、客とみなしていません。
だから、当然のことながら、話をすることはないわけです。
「金の切れ目が縁の切れ目」の代表的な例です。

私とコーチは、それよりマシな気がします。
(そう思っているだけ?)

 

スーパーや百貨店でも、求めるものがなければ、お客は購入しません。

そうすると、相手が求めるものを提供できなければ、お金を支払ってもらえないどころか、話をしてもらうこともできないのは当然のことです。

よくある、生命保険の飛び込み営業は、受ける側からすると迷惑です。
マンションの売り込みの電話も同様です。

自分は何でもできるスキルを持つことができません。
でも、それは他の人にとっても同じことです。

1つのことを極めたレベルの高い人は、異分野にも使うことのできる、汎用性の高い手法を持っている場合もあります。

これは、自分の能力を高めるしかないわけです。

そのための時間と労力を適切に高めていく努力を進めていく必要があります。