学生時代、道を歩いていると手かざしして、祈らせてくださいという人に声をかけられた。
有名な新興宗教の信者活動である。私は、頼まれるのを断るのもどうかと思い、その祈りを受けたことがある。
手をかざされて、「光を感じませんか?暖かみを感じませんか?」と言われたが、私には感じられなかった。
だから、その旨を伝えた。
今は知っていることだが、人はリラックスさせた状態にして暗示を受けるとその通りに感じやすい。
リラックスすること自体で体温があがることも多いので、暖かみを感じることもうなずける。
しかし、私はその活動を否定的にみるわけでなく、期待するでもなく自分の思う通りにしたがった。
当時の私は今よりもっと人の言うことを受け入れやすかった。
その後、信者に、一度近くの集会所で説明をしたから、来て欲しいと言われた。
さすがに、私もひとりで行くのは気味が悪い。さりとて、この人たちはいったいどんな場所に生息してどんなことをしているのだろうかという好奇心も持っていた。それで友達数人を誘い、集会所を訪れることになった。
集会所は、木造の和風の建物だった。靴を脱いであがると、さっそく、「聖水」だというわき水で手を洗わされた。私は、これで自分の気持ちが洗われるものならばいいと思った。
それから座敷にあがって、みんなが輪になるようにすわらされた。その輪の中に上の地位にいると思われるおばあさんが加わって話をした。その信仰のありがたさ、その信仰が力となって、何十億円かけた建物をつくる予定であることなどをみなに話した。
そして、ひとしきり話した時、「それ、これを見てみい。」といって、隣の人を指さした。
「ほれ、金粉がついてるじゃろう。ありがたいことにそれを感じる者のところにはこういう御利益もあるのじゃ。」といって自慢気に吹聴した。
実際に数人の腕に金粉がついていた。それは天井から降ったものか、おばあさんがふりまいたものなのか、天からの授かり物なのか私にはわからない。
そうして、そろそろおいとまする時間だと告げて、我々は集会所を出た。すると、おばあさんは、いくらでもと封筒を出し、寄付を求めた。それを見て、結局そこに行き着くのかと私は残念に感じた。
我々の置いていった金もあの建物に姿を変えるのだろうか。私たちは財布から1円やら5円やら10円に満たない小銭をありったけ封筒に入れ込んで集会所を後にした。といっても、金額にして、100円にも満たない。
あれから、同じような活動は続いているのだろうか?
興ざめした私は、応援するつもりはない。